広報「やまゆり」第87号

み国にいたるために

健軍教会 浦川 務神父

今年は暖冬と報道された割に桜の開花も平年並みのようです。専門家の解説によると桜の開花は単に気温の上昇だけでなく、その前にある程度の冷え込みが重要な要素になるそうです。やはり、自然界のいのちの営みには何一つ無駄なものはなく、それぞれの調和があって初めて美しく、活気あるものになるようです。
さて、現在は新型コロナウイルスの猛威にさらされ、世界的に混乱状況にあります。この困難な状況は一般社会だけでなく、教会においても同様です。イタリアでは多くの皆様が犠牲になり、その中には多数の司祭たちも含まれているそうです。教皇フランシスコは病者の秘跡を待つ信仰者のもとに赴く司祭たちを励ましておられます。病者の秘跡は、病魔に犯され、残されたわずかな力で、御父の御前に立つ準備をする信仰者を励ますものです。この秘跡は、恵みを受ける者にも、神様より送られた司祭たちにも力強いなぐさめと希望、喜びを与えるものです。私事ですが、初めて赴任した教会において、この秘跡によって司祭としての喜びを体験させて頂きました。いわば私にとって司祭としての喜びの原点でもあります。
確かに、司祭が感染することは重大な危険を招くことになりかねません。何故なら、もし司祭が感染した場合、司祭が感染源となってより多くの犠牲者を生むことにもなりかねないからです。しかし、司祭が持つ至上の使命は、神様と私たち人類との和解の仲介を秘跡によって行うことであり、十字架にそのいのちを捧げられた主イエスに倣うことによって成し遂げられるものです。信仰によって理解され、受け入れられる神秘の一つでしょう。\nもちろん、闇雲に危険に身を曝すことは愚かなことですし、厳に慎まなければならないことです。教皇フランシスコが「恐れるな」と強く励ましておられることは、司祭自身が身の保全という本能的な願いによって至上の使命がゆがめられる事がないようにとの事でしょう。
ところで、今年の四旬節は前例がないくらいに異例続きでした。まさに、信仰者としてその信仰を問われるものになりました。信仰生活における共同体の持つ役割の大きさを痛感させられたように思います。信仰者として一人で生きることが、こんなにも頼りなく、心細いものだと気づかされたのではないでしょうか。人の姿や声が小さく遠いものであれば、それは神様ご自身のみ姿と声をはっきり見分け、聞き取るよい機会でもあるのです。
仲間の姿や声に動かされないで、自身の心の声に従い、信仰を見つめ直す事に気づかされた事が今年の四旬節の実りのようです。信仰者としての真の復活できる事を願って。

新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り

2020年4月3日 日本カトリック司教協議会認可

いつくしみ深い神よ、
新型コロナウイルスの感染拡大によって、今、大きな困難の中にある世界を顧みてください。
病に苦しむ人に必要な医療が施され、感染の終息に向けて取り組むすべての人、医療従事者、病者に寄り添う人の健康が守られますように。
亡くなった人が永遠のみ国に迎え入れられ、尽きることのない安らぎに満たされますように。
不安と混乱に直面しているすべての人に、支援の手が差し伸べられますように。
希望の源である神よ、わたしたちが感染拡大を防ぐための犠牲を惜しまず、世界のすべての人と助け合って、この危機を乗り越えることができるようお導きください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。
アーメン。
希望と慰めのよりどころである聖マリア、苦難のうちにあるわたしたちのためにお祈りください。

洗礼~立ち返る場所

2019.12.24受洗 無原罪のマリア 工藤 祐子

1日の始まりに主の祈りを唱え、聖歌を歌い、校長先生をはじめ、多くのシスターに囲まれた環境の中、カトリックの女子校で13歳~18歳までの6年間を過ごしました。
日本ではよく“困ったときの神だのみ”という言葉を耳にしますが、私も例にもれず困った時にだけ“神様どうか助けてください!”と、祈っていました。
子供の頃の刷り込みでしょうか、そんな時に心に浮かぶのは、イエス様、マリア様のお姿で、思い浮かべるだけで何故かほっと安心していました。その話を浦川神父様にしたところ、“まさにミッションスクールだね”と、おっしゃられて「ミッション=宣教」目からウロコが落ちる思いでした。
子供の頃に過ごした6年間の習慣や教えは、確実に私の中で種をまき、長い時間を経て、実を結んでいたのだと感じました。
さて、私が洗礼を授かる大きなきっかけの一つとして、昨今、子供の様々な形での虐待や虐待死など、胸がしめつけられるような話が多く聞こえてきます。深い悲しみと同時に絶望感、無力感の中、やるせない気持ちを神様に祈ることしかできませんでした。
そんな日々の中、何か困ったことがあると、校内にある御聖堂に行き、祈っていたことを思い出し、教会に行き祈りたいと思い、思い立ったら居てもたってもいられなくなり、平日朝の御ミサに突然行きました。
その時に神父様がお声をかけてくださり、お勉強を始めることになりました。
勉強を通して、教えに対する違和感や、大きな疑問はなかったものの、逆になさすぎることに、このまま洗礼を受け、こんな私がキリスト者となって良いのだろうか・・・という漠然とした不安がよぎったことがありましたが、神父様をはじめ信者の皆さんの神様と向き合い祈る姿に導かれ、キリスト者となるべく日々を過ごしてきました。洗礼までの一年半の間に出会った方々と共に過ごした時間は、心の糧となり、多くの気づきの日々となりました。
これからの人生、様々なことに迷い、自分の力だけではどうにもならないような場面に直面することがあっても、神様の教えが道しるべとなり、立ち返る場所となってくださることと思います。
ここまで導いてくださった、浦川神父様をはじめ、シスターの方々、代母さん、信者の皆さんに心から感謝を込めて。

俳句を作っています

佐藤 武敬
私は昨年のクリスマスイブに85歳で家内の星光(82歳)と共に洗礼の恵みを頂いた者です。
人生の終末期に縁あって、伝統あるカトリック健軍教会で、お世話になることになりました。
「キリスト教入門講座」を終わり、「要理勉強会」「聖書100週間」で勉強中ですが、教会に通うことにより、心を強くして、より良く生き、より良く死にたいと願っています。
この他に、趣味のカラオケで咽喉を、俳句で頭を強くしようと考えています。

熊本や松山でのイベントで入賞した作品を紹介しますと

また自分でも気に入っている最近作は次の通りです。

最後に教会に関係のある句を並べてみます。

新型コロナウイルス拡散の終息を祈って

久野 薫

三年前に、腰の痛みや足のしびれが出て脊柱管狭窄症、骨粗しょう症と診断され歩くことも大変な時期があったが、少しだけ歩く力がついてきている。
運動のため近くの下江津湖の公園まで歩くことが多いが、最近の週末は、新型コロナウイルスの拡散によって公園でもマスクをかけた人達が多い。国の政策によって、いろいろな所に出かけられないストレスを抱えた大人や子供達が、広い空間を求めて来ているようだ。
管理棟の所の坂道をスケートボードではしゃぐ子供達、バトミントンや散策する人、ジョキングしている人、公園内の水路に入ってザリガニ捕りに夢中になっている子供達などを見ていると、新型コロナウイルスの拡散による社会的な不安と委縮した気持ちを、束の間忘れさせてくれる光景だ。
通っている内科では先生に、「ミサには参加しないで下さい」と言われた。主人の姉さんに訪問診療や訪問看護を受けている時から、私がカトリック教会の信者だと知って言われた言葉だった。まだ、教会からの通知(三月いっぱいミサがない)が来ていない時でちょっと返事に困ったが、その日の午後、教会からの通知が来て安心して休むことが出来た。
日々の霊的な支えは「毎日のミサ」の本の黙読と主人と祈るロザリオの祈り。家庭や教会共同体のため、世界中の新型コロナウイルスの拡散で苦しんでいる人達のために、また、一日も早くこの状態が終息しますようにと希望を持って祈り続けている。

お知らせ

2020年4月19日付けで浦川務神父様が健軍教会から大江・崎津・本渡教会主任司祭として転出され、同日付で渡辺隆義神父様が大江・崎津・本渡教会から健軍教会主任司祭として着任されます。
浦川神父様、長い間私達信徒をお導き下さり有難うございました。

(編集後記)

主のご復活、おめでとうございます。浦川神父様が書かれておられる通り今年の四旬節からご復活までは、未だかつて私たちが経験したことがない試練の中で過ごした1か月余りの期間でした。日本や世界の多くの方々がコロナウィルスの犠牲となり天に召されていることは大きな悲しみですが、私たち自身もごミサに与かれず、御聖体を頂けない苦しみを現在も味わっています。改めて教会とごミサが如何に自分の生活に大切なものであるかを痛感します。
今はイエス様が人類をコロナウイルスから助け出して下さることを心を合わせて祈り、再び皆が健軍教会でミサに与れることを思い描き、耐えましょう。
主の平和。

野々目 洋