広報「やまゆり」第86号

「断捨離」大切なものを手にするために

健軍教会 浦川 務神父

今年は元号が「平成」から「令和」に変わり、フランシスコ教皇様の来日と様々なことがあり、喜びに満ちた年あり、また自然災害も各地で頻発し、心が痛む1年でもありました。年末で何かと騒がしく、足が地につかない雰囲気ですが、主の降誕を迎えた今こそ、人生を豊かに、ていねいに生きるために「大切なもの」について考えてみましょう。
さて、私たちはみずから望んで、また1人でこの命を受けることはできません。神様のみ旨のうちに両親の愛情によってこの小さないのちは鼓動を打ち始めます。「いのち」は、ひと組の男女のいのちのふれ合いによって育まれ、誕生すると言えます。確かに、その始まりは小さく、その存在に気づくことすらできないようなものであっても、胎内において胎盤をとおして母親といのちの絆で結ばれて成長し、やがて誕生の時を迎えます。その誕生は両親を始め、多くの人々に喜びと生きる希望を与えます。
ところで、昨今の新聞・ニュースに目を向けると、この目に飛び込むものは悲しい人間模様・家族の悲痛な叫びであり事件です。お互いの喜びと2人の幸を望んで始まる結婚生活、そして2人によって育まれたいのちによる新たな生活、それぞれが其々であることを良しとしていた生活もいつしか軋み始め、破綻をきたし、事件となって表面化しています。現在の私たちにとって喜びの源泉であり、最も大切なものであるはずの家庭・家族が危機を迎えていると云われ始めて久しいです。夫婦と云っても最初は他人であり、育ちや好みも違えば価値観も異なる2人です。その上、子どもたちも含めて考えると共通点を探すほうが難しいかも知れません。このような状況の中でいま一度原点に返るためには何が大切でしょうか。
現在の私たちはあまりにも欲張りで、持てない程のものを持ちながら、さらに多くのものを手にしようともがいています。この欲望が私たちの間にある苦しみの源泉の1つになっています。ここで、私たちは手にすべきものと、手放すべきものを分け、少し心の整理をする時を迎えているようです。シンプルに私にとって、夫婦にとって、家族にとって何が最も大切で、手に持ち、いかなる犠牲を払ってでも守るべきものでしょうか? この問いかけと、何を差し置いてでもこの手にし、守るべきものを守り通そうとする努力が私たちを原点へ立ち戻らせ、大切なものを取り戻すことにつながっています。また、私たちは瑣末な家畜の小屋をこの世の生活の始まりに選らばれた神の子の誕生のうちにも大切なものに対する神様の啓示を見出すことができます。
御父は私たちの救いの為に、すなわちご自分と私たちの和解による神のいのちへの招きの為に御子を送ってくださいました。そして、幼子としてお生まれなった救い主・イエスは十字架の祭壇でご自分のいのちを全人類の贖いの犠牲として捧げつくしてくださいました。まず、ここに神様が私たちに啓示してくださる大切なものが何か?その為にどれほどのことが必要だったかを知ることができます。次に「おおせのようにこの身になりますように」とマリア様は天使に答えられていますが、この答えにはいのちをかけた強い決意が込められていました。さらに、ヨゼフ様もご自分の許嫁に与えられた使命を自分のものとして受け止め、すべてを共にしようとする愛を示してくださっています。おふたりがこのような選択と歩みができたのは神様への信頼と信仰とがあったからでした。
私たちが大切なものを見出し、それを共に求め続けて生きるために必要なことは、神様への信頼と信仰を手にして心の断捨離をしながら生きることです。つまり、心に入ってくる不必要なものを断ち、不要なものを捨て、ものへの執着から離すことです。日々の生活を見つめ直すことによって、大切なものとそうではないものとの区別が見え来るでしょう。ひとりの人間、信仰者として自身を取り戻し、家庭と社会に生きる者としての幸を求めるなかで、与えられる以上に与えることによって心に満ちる幸を感じることになるでしょう。
さて、私たちは何から心を断ち、何を捨て、何から心を離すべきでしょうか。その答えは私たちの中にあります。

「教皇様来日ミサにあずかって」

佐々木 綾子

長崎に行く前夜、曇りのち雨の予報に少し不安になりながら教皇ミサにあずかれる期待を胸に就寝しました。当日高速バスに乗ってしばらくすると、天気予報通り雨が降ってきました。雨合羽を用意しながらバスから降りると、会場となるスタジアムに向けて長い行列が続いていました。参加者の多さに驚きつつ、心躍る気持ちでスタジアムに入場しました。
ミサ開始の少し前から雨が止み、雲が去り青空が見えてきました。次第に日差しが強くなり、汗ばむほど暑くなってきました。そして教皇様が入場されると歓声があがり、日の丸やバチカン国旗、教皇様の祖国アルゼンチンの旗を振ってお迎えしました。パパモービレと呼ばれる車に乗られた教皇様は手を振りながら、また赤ちゃんや幼子を祝福しながらグランド席の参加者の間を巡られていました。モニターに映る教皇様のお顔は、素晴らしい笑顔でした。しかしミサが始まり、席に着かれた教皇様はやはり少しお疲れのようにお見受けしました。ニュースによると82歳の教皇様には厳しい過密スケジュールだったそうで、まさに命を削って東の果ての日本までおいで下さったのではないかと思いました。\n被爆国であり、近年災害で多くの犠牲が出た日本、そしてキリスト教迫害の歴史の中信仰を守り抜いた多くの信徒がいた長崎に心を寄せていただき、長く訪日を望まれていたとお聞きし大変ありがたく感じました。教皇様のもとに集い、喜びと共にお祈りすることができ本当に多くのお恵みをいただきました。また平和のあいさつでは同じ信仰を持つ初めて出会った方々や外国の方々と目を合わせてあいさつする時、カトリック教会を通して自分が世界とつながっていることを実感することができました。\n教皇様は長崎の後、広島、東京で多くの日程を終えられローマへ戻られたようですが、どうかいつまでもお元気で私たちを導いていただきたいと思いました。そして教皇様が世界に向けて発信してくださった事を私たちにもできる小さなことから実践していきたいと思います。\n最後に、ミサ中も席に着かず待機されていた救護スタッフの方々や強い日差しの中身じろぎもせず警備に当たられていた警察官の方々、長いトイレの列を丁寧に誘導されていた若いスタッフの方々の姿も心に残りました。教皇様来日ミサを陰で支えて下さった方々のおかげで貴重な経験ができたことを感謝したいと思います。

「聖書100週間」のご案内

久野 薫

教会入り口に、「聖書100週間」への参加申し込みを置かせてもらっています。始まるのは、2020年1月15日(水)からです。聖書100週間は、全聖書を100週間で通読するプログラムです。「聖書100週間」の配分表によって聖書を読んでいきますが、3年程かかります。お世話をする私は、過去に手取教会で2回(6年間)参加しました。そこで、生活の中で、神様のみことばに生かされていることを体験しました。
ある年の年末、私達は突然に名古屋から姑を引き取り同居することになりました。(姑は当時68歳)当時は、主人と私、小学1年の娘、そして、姑が同じ部屋で寝る状態。小学4年の次男と小学6年の長男は別の部屋でした。
私達と宗教も違う気の強い姑との突然の同居は葛藤の日々で、私はそれから逃げるように、また、何とか乗り越えられるようにとの思いから、手取教会で行われていた「聖書100週間」に参加するようになりました。
旧約聖書のルツ記のところで、夫を亡くしても心優しく姑思いの嫁、それに、どこまでも嫁の幸せを願う姑の姿に現実にはいないと反発し、心に入って来ませんでした。けれども、2度、3度とルツ記を読むうちに、私は観念しました。このようにはなれないが、少しでも近づくようにならなければ私の家にそして私にも救いはないと。
そのうちに、姑は私達と教会に行くようになり、主任司祭から2年間入門講座を受け、78歳で洗礼を受け89歳で亡くなりました。胃癌から腎臓癌への転移で、最後は在宅で訪問診療と訪問看護を受け、それは安らかに眠るように息を引き取りました。虫の知らせだったでしょうか。亡くなる3日前に私は「自分が至らなかったことを謝り、最後まで私がしっかり看るので何も心配しないように」と伝えましたら、姑は「ありがとう」と返事してくれました。このように姑との最後を迎えられたのは、「聖書100週間」に参加したお恵み、みことばの力と感じております。
健軍教会では、2013年9月から2016年にかけて「聖書100週間」のお世話をしました。最近は信徒による「キリスト教の入門講座」を担当させていただいていましたが、講座の最終日に、ご高齢のご夫婦から「死ぬ前に、聖書を全部読みたい」との希望がありました。85歳と81歳のご夫婦で、クリスマスに洗礼予定の方です。大変驚きましたが、そのご要望に応えようと思いました。それで、2020年1月から、「聖書100週間」のお世話をまた始めることに致しました。お世話をする私にとっても、さらに恵みのチャンスとなります。

(編集後記)

主のご降誕、おめでとうございます。今年は私たちカトリック信者にとってフランシスコ教皇様の来日という大きな恵みを受けた年でした。また平成から令和への改元もあり、大きな節目の年でもありました。健軍教会では皆様のご協力で聖堂に立派で新しい十字架と椅子が据えられました。このような記憶に残る年に主から命を与えられていた恵みをお感じになった方も多いのではないでしょうか。聖堂の十字架に架けられたイエス様を仰ぎ見るたびにあまりに大きい主のお導きとお恵みを感じます。\n私にとっても健軍教会にお世話になって1年余りにも関わらず広報担当という役割を仰せつかり皆様とともに歩み、教皇様のミサにあずかる大きな恵みを受けた年でした。まだまだつたない広報活動ですが、主イエス・キリストへの信仰に繋がる方がたとえ1人でも2人でも健軍教会に与えられるように来年も活動させて頂ければと思います。主の平和。

野々目 洋