広報「やまゆり」第91号

次世代への記憶

健軍教会 渡辺 隆義 主任司祭
新型コロナのまん延防止宣言が継続中、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
教会活動もまだ何かと制約を受け、「早い終息を」との祈りが続いています。
今年は熊本地震から5年。聖堂内で倒壊した聖母マリア像の頭部を教会の柱に取り付けて歴史の記憶を次の世代に伝えることにしました。
では、私たちが伝えたいこととは。それは、教会建造物の被害もさることながら、“神の祝福”です。神の祝福とは、多くの善意の人々からいただいた支援のことであり、とりわけ、私たちに与えられた希望の光です。この神の祝福を次の世代にも語り継ぎたいものです。
主イエスこそ、教会発展の力であり、主イエスがおられるところに聖母マリアがおられます。
熊本地震で被災した聖母マリア像を設置する目的はここにあります。
平和について考える8月。平和を祈る月です。今もなお、私たちが住む“地球船”には紛争や飢餓に直面している国々があります。身近な家庭や学校の中で、職場や地域社会で心身への不当な暴力に声もあげられないで苦しむ人たちがいます。私たちがまがりなりにも平和を享受できているのは疑いもなく神の恵みの目に見えるしるしです。私たちの穏やかな日々は他の人たちにもキリストの平和が訪れるように働くためです。微力ながらも平和の奉仕者となりましょう。
とはいえ、決して、平和は自分の努力だけで実現するものではありません。
きっと私以外の誰かによって成り立っているのです。
だからといって、何もしないわけにはいきません。何もできないということ
はないからです。キリスト者には必ず何かできることがあります。できない私に代わって、できる神様がしてくださるように熱心にお願いすることです。
聖母マリアがこれからもずっと教会を守ってくださいますように。聖母マリアにならって主イエスの思いを大切にすることができますように。主イエスを通して御父の栄光を日々讃えることができますように。

熊本地震被災の聖母マリア像祝福式

8月の半ばに珍しく記録的な大雨が続いておりましたが、聖母被昇天の祝日の今日は朝から雨が上がり、ミサ後被災の聖母マリア像祝福式が無事に行われました。石版に刻まれた説明文の上に設置されたマリア様は穏やかなお顔でしたが、地震によって倒されたマリア様の頭部は下の方が割れていて、地震の遺物であることを物語っています。
熊本地震から今年で5年が経ちました。しばらく手付かずだった町の区画や道路の整備が進み、熊本のシンボルである熊本城の天守閣が公開され、新阿蘇大橋が開通したというニュースもありました。地震からの復興が少しずつ目に見える形となりました。健軍教会も被災の聖母マリア像を設置することによって、復興を実感し一区切りをつけることができたのではないかと思います。
この地震によって、ご家族を亡くされた方や避難生活を余儀なくされた方、家や生活基盤を失った方がたくさんいらっしゃいました。健軍教会の信徒さんも引っ越しをされたり、これを機に施設に入られたりして、転出された方々がいらっしゃいました。教会の建物に大きな損傷はありませんでしたが、マリア像が倒れ、ステンドガラスが割れ、聖堂がしばらく使用できない状態でした。当時の主任司祭である浦川神父様と信徒の方々、福岡司教区から応援に来て下さった神父様や神学生の方々のご尽力によって、聖堂でミサができるようになりました。また日本全国から多額の義援金、励ましの言葉やお祈りをいただきました。健軍教会では福岡司教区を通して半壊、全壊された方々に義援金をいただき、また直接健軍教会にと、司教区から、神父様方から、教会・修道院・幼稚園から、そして個人からもたくさんの義援金を送っていただきました。この義援金によって、水道管工事や東側(マクドナルド側)の擁壁工事を行うことができました。
時間が経つと皆が困難の中にあって、多くの助けをいただいたことを忘れがちです。この被災の聖母マリア像を見るたびに、こうした当教会に寄せられた援助、励まし、お祈りを思い起こし、感謝してまいりたいと思います。そして今なお困難の中にある方々や多発する自然災害の被害に遭われた方々が乗り越えていかれるようにお祈りしていきたいと思います。
被災の聖母マリア

聖体奉仕者任命式とミサに与って

久野 薫

聖体奉仕者任命式は、7月4日(日)福岡、カテドラルの大名町教会において、ヨゼフ・アベイヤ司教様司式によって、午後1時~3時半まで行われました。
コロナ禍が続く中、任命式に欠席しても更新はしていただけるとの知らせを受けていました。けれども私自身は10年前に奉仕者の任命を受けた後、ご自宅や病院に、熊本地震後は仮設住宅におられる病気の方への聖体奉仕をさせていただいていましたが、この4年程は私自身が病気をしていましたので、このまま更新していただいたとしても、自分自身に不安な気持ちがありました。それから、参加することによって力を受けるのではという思いが強くなり、日々の祈りに「任命式に参加出来ますように」との祈りを追加しましたことで、与ることが出来たと感じています。
研修の中で学んだことは、聖体奉仕者に委ねられている奉仕は、EUCHARISTIA(ユーカリスト)「感謝の祭儀」(ミサ)に源泉があるこということ、病者へのご聖体の授与の場合、聖体奉仕者は、その兄弟姉妹の共同体との繋がりを保つための大事な役割を担っているということを、あらためて感じました。そして、聖体奉仕者は、感謝の祭儀で自分の霊性を養い、教会共同体との密接な繋がりを大事にして、与えられた使命を果たすべきであると学びました。
また、「感謝の祭儀」には宣教的な面があり、人を生かすために与えられたイエスのいのちをいただいた者は、社会に存在している不正、差別、排除、争いなどを無視することが出来ないということを学び、新たな視点を指摘されたと思いました。これからは、これまで以上に社会のいろいろな問題に関心を持ち、自分で判断し行動する力も養っていかなければならないと思いました。ヨハネ10,10にあるように、イエスは、皆が与えられたいのちを豊かに生きることが出来るようにとご自分のいのちを捧げられたのですから、「感謝の祭儀」は、私たちの目を世界に向けさせて、いのちを守り育むように世界に派遣しますとご指導を受け、任命を受けました。
主任司祭のご指導を仰ぎながら、またこの任命式で学んだことを念頭におきながら、聖体奉仕を務めさせていただきたいと思っています。

「結婚60周年」の想い出

ルカ・井手 文弥

人と人との出会いは不思議なものですね。以下、僕と和ちゃん(旧姓斎藤和子)の想い出の話です。
僕は昭和30年に長崎の高校卒業後、N銀行に採用され、最初の勤務地が熊本支店でした。辞令には「書記に任じ、本俸4,950円を給す」とありました。
4月10日の復活祭に手取教会に行くと、入行日に挨拶した和ちゃんがいました。和ちゃんは中学生の頃から教理を勉強し、20歳になったら洗礼を受けようと決めていたそうです。4月10日は彼女の誕生日でした、そして、その年のクリスマスに受洗(霊名ルチア)しました。
その日から僕たち二人の結婚までの6年間、順風満帆とは言えないまでも、赤い糸は切れませんでした。昭和36年、僕が夜学の熊本商大を卒業すると、和ちゃんは銀行を退職し、5月7日、手取教会においてブランチ・フィルド神父様の司式により結婚しました。披露宴は新築間もないホテル・キャッスルでした。
僕が銀行の独身寮を出る時は、二人でリヤカーを引っぱってアパートに引っ越しました。
何と言っても若輩薄給の身、生活は大変で、和ちゃんは失業保険でやりくりしていました。そして翌年、長女が誕生すると、銀行の社宅に入ることが出来ました。
当時の熊本市内は、辛島町にまだ戦後のヤミ市があり、ラーメンは30~50円、甘酒饅頭は5円でしたから、何とか生活できたのではないでしょうか。
結婚三年目、昭和39年東京オリンピックの年、東京に転勤になりました。東京には和ちゃんの両親がおりましたし、僕には長兄が東京教区にカトリック司祭で、母がその賄いをしていましたので、願ったり叶ったりの転勤でした。
ところが東京の通勤は大変でした。バスで荻窪駅に行き、そこから満員電車に乗り、神田駅まで身動きもできませんでした。オリンピックは何処でやっているのか、和ちゃんは飛行機が空に画いた五輪のマークを見上げただけだったといつも話しております。
所属の下井草教会は、若い家族が中心で活気がありました。「ヒフミン」で有名な天才棋士・加藤一二三さんの家族もおられ、壮年会で侍者をしたり、家族ぐるみの焼肉パーティーなどをしたりしました。
一方、荻窪の社宅はまだ「ポットン便所」で、水洗便所になったのはかなり後になってからだと思います。
東京では、長男、次男がたて続けに生まれ、和ちゃんは三人の子供を乳母車に乗せて戦車と言われるように走り回っておりました。
月日の経つのは早いもので本社勤務も13年となりいよいよ地方勤務が始まりました。
昭和52年に最初は金沢支店(在籍3年半)、55年に下関支店(同3年)そして58年神戸支店(同2年)と計8年半の間、得難い地方勤務を経験しました。そして北陸3県をはじめ、各地の名所旧跡、観光名所を見聞きすることができました。
しかし、金沢転勤の時は、長女の高校入試の時で、和ちゃんは長女と二人で見知らぬ豪雪の金沢に行き、北陸女学院を受験(合格)しましたし、また下関支店転勤の時は、長男を金沢の公立高校から下関の高校に転校させました。さらに次男は、金沢から熊本(健軍)の祖父母に託し、多感な中学・高校時代を送りました。こうして、子供達は転勤の度に犠牲となり、また和ちゃんは新しい社宅の奥様方との付合いをはじめ、学校のPTA役員などに係わるなど苦労が多く、本当に申し訳なく思っております。
でも、「金沢教会」では、親切な「戸塚刺しゅう」の先生がおられ、指導してくださったお蔭で和ちゃんは生涯の仕事として今も熊本で後進の指導に当たっております。
また、金沢は浦上キリシタン(約600人以上)が金沢藩に流配された土地で、市内の卯辰山に殉教者碑が建っております。そして、庶民に人気のある名物「ドジョウの蒲焼」はキリシタンの取締りが緩和された時に彼らが生活の糧のため、売り歩いたものだそうです。
翻って結婚生活60年は、長いようで短くも感じますが、決して平坦ではなく、病気との闘いでもありました。和ちゃんは何回切腹手術をしたでしょうか。急性膵炎で3か月入院したこともありました。また、僕は痛風で歩けなくなったり、進行中の結腸癌の大手術を60歳の時にしたりしました。しかし今日二人揃って生を得ているのは、神様のお恵みの外にないと感謝しております。
最後に「口は災いのもと」と言います。何げなく言った言葉が「グサッ」と相手の心を傷つける事があります。その昔、和ちゃんを「和子!」と呼び捨てにしておりましたが、和ちゃんに諭されてから「和ちゃん」と呼ぶようにしました。そして何かにつけ、感謝の気持ちを込めて「サンキュー」と言うことにしております。
(サンキュー)

私の「終活」

岩下 千紗子

「終活」の二文字が気になり出し久しい身ですが、思えば夫の三回忌を迎え、葬儀の際、神父様から籍を移していない事を知らされていました。先回の総会の課題に上っていた信徒籍台帳の件が引っかかり、この際先の短い身ですので健軍教会に移籍しておかねばと思い立ち、以前の教会に残してあるものと恥をかいて尋ねた訳でした。
ところが簡単に移せると思っていたところ、長年お世話になっていた教会に私の籍が不明でした。それ以前に(結婚で50数年前に)少し通った帯山教会にズボして残っていると尋ねても、生まれた上の子供3人の受洗記録はあっても自分の籍がありません。
東京から来熊して長く移転ばかり、子育てにかまけ、介護に明け暮れ、あつかましく顔だけは三ヶ所の教会にお世話になり、(島崎教会でも下の3人の子供と主人も受洗のお恵みを受けながら、)これでは天国に行かせてくださいとあつかましくお願い出来ない心境になりました。
穴にでも入りたい思いで独身時代の東京の2ヶ所の教会に尋ね、やっと受洗した60年前の教会に記録がありました。一度持ち出してはいるのですが不明者になっておりました。
勧められて結婚証明のコピーと共にやっと教会に籍が出来、先日健軍教会にお願いしたところです。
今は教会から離れている子供達も含め(昔のことですので神父様方にご苦労をおかけしながら)、親と同じ教会に移籍を願っているところです。
近頃続けて実家の姉、兄を亡くし、つくづく長いようで短い人生、悔いのないよう、熱心な皆様の跡について感謝の内にがんばって参りたいと思う今日この頃でございます。
この様な中途半端な信者ですが神様、最後の一日まであわれみとおゆるしをお願い申し上げます。

お知らせ

1 カトリック健軍教会ホームページについて
カトリック健軍教会ホームページは、「カトリック福岡司教区」のホームページからもアクセスできます。カトリック福岡司教区のホームページには「主日の音声説教」や「平日にもみことばの配達」などが掲載され、大変充実した内容になっていますので是非一度ご覧ください。

2 「聖書と典礼」について(再掲)
ミサで各自が使われた「聖書と典礼」は各自お持ち帰りください。聖書と典礼には「今週の聖書朗読」が記載されていますのでご家庭での日々のお祈りにも活用できます。なお、「聖書と典礼」は昨年11月より全て大判のものをのみを使用しています。

(編集後記)

先の見えないコロナ禍の中でのミサや教会の行事。いつまでこのような状況が続くのだろうかと皆さまも鬱々とされていることと思います。でも私たちカトリック信者にはイエス様のお導きという大きな心の支えがあります。心を一つにして艱難を乗り越えましょう。
今回の「やまゆり」は渡辺主任司祭の巻頭のお言葉をはじめ、佐々木様、久野様、井出様、岩下様からの寄稿と、大変充実した内容になりました。皆様、お忙しい中、原稿を寄稿して頂き大変ありがとうございました。
主の平和。

野々目 洋